大津事件と西南戦争【その後のロシア帝国の没落と現在のウクライナの侵攻】

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大国ロシアの成立と日本

本稿を書くきっかけとなったの新書の紹介でした。大国となっているロシアがウクライナ侵攻に国をあげて注力しています。何故でしょうか?!日本を巡る一つの事件を通じて史観をご紹介します!!今回ご紹介する事件は共にロシア皇帝が領土を収めていた時代以後の話です。

そもそも、ソビエト連邦(ソビエト社会主義共和国連邦)の崩壊後を振り返ります。(1991年にソビエト連邦が解体され、その過程でロシア連邦が独立国として成立しました。)以下は、ソビエト以降のロシアの成立についての概要です。

ソビエト連邦の崩壊(1991年):

    • 冷戦の終結や経済的な困難などの要因により、ソビエト連邦は崩壊の兆候を見せ始めました。
    • 1991年8月、ソ連内の保守派がクーデターを試みましたが、失敗に終わり、ソ連政府は崩壊の危機に直面しました。
    • 同年12月、ボリス・エリツィン率いるロシア連邦最高会議が独立を宣言し、ソビエト連邦の消滅を宣言しました。

ロシア連邦の成立:

    • 1991年12月25日、ソビエト連邦の最後の指導者であったミハイル・ゴルバチョフが辞任し、ソ連は事実上の崩壊となりました。
    • その直後、ロシア連邦の最高会議がボリス・エリツィンを大統領に選出し、独立国家としてのロシアが成立しました。
    • ロシアはソビエト連邦時代からの遺産を受け継ぎ、国の名称を「ロシア連邦」とし、モスクワを首都としました。

この後、ロシアは市場経済への移行や政治的な変革を経て、新しい国家としての基盤を築いていきました。

ソビエト以降のロシアは、国際的な政治、経済、文化の様々な側面で大きな変革を経験し、新たな課題や機会に直面しています。

津田三蔵と西南戦争

ここでご紹介する津田三蔵とは大津事件の実行犯です。一つの考え方として面白く思えたのは「大津事件がなければ日露戦争は起きなかった」というくだりでした。

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そもそも、ロシア皇太子ニコライにテロ行為を働いた津田三蔵は官軍として西南戦争に従軍して評価を受けています。ニコライが日本訪問の際に首都東京からではなく、鹿児島から訪問を初めた経緯が問題だったと後の人々は考えています。

何故なら鹿児島は西南戦争では賊軍の本拠地となっていたからです!!思い込みは怖いですね!!

そもそも、大津事件は、日露戦争の発端とされる重要な出来事の一つです。この事件がなければ、日露戦争は起きなかった可能性が高いと言われています。

以下に、大津事件と日露戦争の関連性について解説します。

大津事件とは何か?

大津事件は、1903年に日本で発生した暗殺事件です。当時のロシア帝国の駐日大使であったステパン・イワノヴィッチ・ヒロキンが、京都府大津市で暗殺されました。この事件は、日本とロシアの外交関係に深刻な緊張をもたらしました。

大津事件の背後にある要因

大津事件の背後には、日本とロシアの対立が存在しました。その主な要因は、両国の権益が競合していた満州と朝鮮における利益争いでした。日本はこれらの地域での権益を強化しようとし、ロシアは自身の影響力を維持しようとしました。この競争が緊張を高め、大津事件が発生した時点で外交的な解決が難しい状況にありました。

大津事件が日露戦争の発端になる

大津事件により、日本とロシアの対立が激化し、両国間での外交的解決が難しくなりました。日本はロシアに対する圧力をかけ、事件の解決を求めましたが、ロシアは譲らず、対立が一層悪化しました。結局、外交交渉が決裂し、日本は1904年にロシアに対して宣戦布告し、日露戦争が勃発しました。

日露戦争の結果

日露戦争は、日本が勝利し、多くの国際的な注目を浴びることとなりました。1905年のポーツマス条約により、戦争は終結し、日本は領土と権益の一部を獲得しました。しかし、この戦争は日本とロシアの対立を決定的に解決することはありませんでした。

要するに、大津事件は日露戦争の発端であり、日本とロシアの対立がこの事件を通じて爆発的に表面化しました。もし大津事件が起きなかった場合、日本とロシアの対立が別の形で解決され、日露戦争は発生しなかった可能性が高いでしょう。

しかし、その後の国際政治の複雑さを考えると、

別のきっかけで戦争が勃発した可能性もある

ことを理解する必要があります。

皇太子ニコライの末路

皇太子ニコライは日本での予定を大幅に縮めて帰国します!!その後のロシアに対する謝罪、司法判断は特筆に値します!!

この事件の後、ニコライ皇太子の末路については以下のような展開があります。

ニコライ2世の即位:

ニコライ皇太子は事件を生き延び、のちに父帝アレクサンドル3世の死後、1894年にロシア帝国の皇帝として即位しました。彼はニコライ2世として知られ、その統治期間は非常に重要な歴史的出来事に関わりました。

ロシア革命:

ニコライ2世の統治期間には、ロシア革命の前兆が現れ、最終的には1917年にロシア革命が勃発し、ニコライ2世は退位させられ、その後一家とともに逮捕されました。

ニコライ2世と家族の処刑:

1918年7月に、ニコライ2世、その妻アレクサンドラ、および彼らの子供たちはエカテリンブルクで処刑されました。この事件はロシア革命と帝国の終焉を象徴するものとなりました。

ニコライ2世の末路は非常に悲惨であり、彼は帝国の崩壊と共に暴力的な結末を迎えました。その後、ロシアはソビエト連邦としての新しい政体に移行し、帝国時代の歴史は幕を閉じました。

成立国家ロシアの藩図

旧ロシア帝国の領土を基本として先ずソビエト連邦が成立します。そしてゴルバチョフのペレストロイカ政策を経て民主化し今に至ります。

但し、経済モデルで民主化しているとはいえ政治機構は完全に民意を反映しない体制を保持しています。ニコライ皇帝の時代からの統治機構は伝統的であるとも言えます!!

ニコライ皇帝の時代におけるロシアの統治機構は、ソビエト時代からの影響を受けつつも、一部伝統的な要素を保持していました。この時期のロシアの統治機構について以下に述べてみましょう。

ニコライ皇帝の統治下では、帝国は依然として封建制度に基づいて組織されており、皇帝が絶対君主としての権力を持っていました。この伝統的な統治形態は、ロマノフ王朝の時代から受け継がれ、宮廷や貴族階級によって支配されていました。

しかし、ソビエト時代の影響も感じられました。特に官僚制度や軍事組織は、一部ソビエトのモデルに基づいて近代化されました。また、経済や産業においても一部の中央集権的な計画経済の要素が導入されましたが、これらは伝統的な統治機構とは異なる要素でした。

ニコライ皇帝の時代においても、ロシアの宗教的な伝統は重要な役割を果たしまし

た。正教会は国家の一部として存続し、宗教的な機関も存続しました。

要するに、ニコライ皇帝の時代のロシアの統治機構は、ソビエト時代からの一部の変化を受け入れつつも、伝統的な封建制度や王権に根ざした要素を保持していました。この時期は、ロシアの歴史において過渡期とも言える時代であり、異なる統治形態や価値観が複雑に結びついていた時期でした。

〆最後に〆

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