二人の松本が「あたらしいProductの開拓」をしたのです。

New Challenge

今回は全然、関係のない松本氏二人をとりあげて、個人的な持論を展開します。

ブログ読者に対しては何らつながりのない二人に思えるはずですが、この記事を読んでみたら、「新しい物を作る」という共通点があると思えるはずです。またそれぞれの人物が残した足跡の大きさも感じることでしょう。

一人目はRubyを作った松本

初めにご紹介する松本は知る人ぞ知る松本です。ルビー(Ruby)を開発したまつもとゆきひろ氏は、日本を代表するソフトウェア技術者です。1993年にRubyの開発を始め、1995年に公開。直感的で書きやすい言語として世界中で愛用され、Ruby on Railsの普及とともに注目されました。現在も研究機関で活動しつつ、Rubyアソシエーション理事長として言語の発展に尽力しています。プログラミングの世界に革新をもたらし、今なお多くの開発者に影響を与えています。

日本人で一番有名なプログラマー・まつもとゆきひろ氏

「まつもとゆきひろ氏:こんにちは、まつもとゆきひろと申します。今日はですね、DXDカンファレンス(「Developer eXperience Day 2023」)で「Visionとリーダーシップ」というテーマでお話をします。よろしくお願いします。」これはとあるカンファレンスでの冒頭あいさつですが、この松本さんはプログラムの世界では有名人です。Wikipediaで調べるとどんどん話が広がります。彼は、日本の著名なソフトウェア技術者であり、オブジェクト指向スクリプト言語「Ruby」の開発者として広く知られています。彼の業績は、プログラミングコミュニティに大きな影響を与え、世界中で使用されるRuby言語の普及に貢献しました。

ゆきひろの生い立ちと教育

松本行弘(まつもとゆきひろ)氏は1965年に大阪府で生まれ、その後、自然豊かな鳥取県で幼少期から青年期を過ごしました。中学生のころに初めてコンピュータと出会い、独学でプログラミングを学び始めたことで、技術者としての道を志すきっかけとなりました。高校時代にはすでにBASICやアセンブリ言語を使いこなしており、その探究心と独自の視点は周囲から一目置かれていたといわれています。

大学進学後、筑波大学第三学群情報学類に在籍し、計算機科学、ソフトウェア工学、人工知能など幅広い分野を学びました。在学中にはUnixに触れたことでオープンソース思想に傾倒し、ユーザーにとって使いやすい言語のあり方に強い関心を持つようになります。筑波大学を卒業後、より専門的な研究を志して島根大学大学院の博士課程に進学しました。そこでは言語処理系やソフトウェア設計の研究に取り組みましたが、後に実務的な活動に重きを置くことを選び、博士課程を単位取得退学しています。

この頃の経験や知見が、のちに彼がRubyを開発する際の哲学や設計思想に深く影響を与えることになります。

ゆきひろによるRubyの開発

1993年、松本行弘氏は「人間のためのプログラミング言語」を作るという明確なビジョンを掲げ、それまでの言語に感じていた「使いにくさ」や「表現の不自由さ」を解消するために、新たなプログラミング言語の開発を決意しました。彼が求めたのは、プログラマにとって自然で読みやすく、かつ楽しくコードが書ける言語であり、効率的にプログラムを記述できることが最大の目標でした。この構想のもとで誕生したのが、後に世界的に知られることになるオブジェクト指向スクリプト言語「Ruby」です。

Rubyの設計には、Perlの柔軟さ、Smalltalkの純粋なオブジェクト指向、Lispのメタプログラミング機能、そしてPythonの明快さといった、既存の複数の言語から着想を得たアイデアが取り入れられています。また、松本氏は「言語は人間の思考の表現手段であり、コンピュータのためではなく、人間のためにあるべきだ」という哲学を持って設計を進めました。この考えは「Matzは、プログラマの幸福を第一に考えている(Matz is nice and so we are nice, MINASWAN)」というコミュニティ文化にも反映され、後にRubyコミュニティの精神的な支柱となっていきます。

1995年、Rubyはインターネット上で初めて一般公開されました。当初は日本国内のプログラマーの間で徐々に注目を集め、使いやすさや拡張性が評価されてコミュニティが拡大していきました。その後、2004年にアメリカのプログラマー、デヴィッド・ハイネマイヤー・ハンソン(DHH)がRubyで構築したWebアプリケーションフレームワーク「Ruby on Rails」を公開したことが、Rubyの世界的なブレイクスルーとなりました。

Ruby on Railsは、当時のWeb開発に革新をもたらす「設定より規約(Convention over Configuration)」の概念を取り入れたことで、効率的かつシンプルにWebアプリケーションを構築できる点が高く評価されました。この流れにより、Rubyは欧米をはじめとする多くの国や企業に採用されるようになり、世界中の開発者にとって魅力的な言語となっていきました。現在ではGitHub、Airbnb、Shopify、Cookpadなど、数多くの著名なサービスでRubyやRuby on Railsが使われています。私も業務で使い出しましたが、非常に洗練された仕組みだと感じます。

Rubyの普及は、松本氏のビジョンと哲学、そしてオープンソースコミュニティによる協力の賜物であり、今なお世界中のプログラマーに愛され続けています。

ゆきひろの現在の活動

松本氏はネットワーク応用通信研究所のフェローとして勤務し、楽天技術研究所のフェローも兼務しています。また、Rubyアソシエーションの理事長として、Rubyの普及と発展に努めています。

松本氏の業績は、プログラミング言語の設計と開発における革新を示し、多くのプログラマーに影響を与え続けています。

二人目はオウム真理教の開祖である松本

次にご紹介する松本はみんな知っている松本です。え?忘れてた?w

松本智津夫とオウム真理教

松本智津夫(後の麻原彰晃)は、1955年に熊本県で生まれ、視力障害のため盲学校で教育を受けました。若い頃から東洋思想や宗教に興味を持ち、修行や瞑想に取り組むうちに、1984年に「オウム神仙の会」を設立し、1987年には「オウム真理教」と改称して新興宗教団体としての活動を本格化させました。彼はインドへも渡り、「ヨガの達人」としての認定を自称し、自らを「最終解脱者」として信者の前に神格化していきます。やがて、「空中浮揚」や「転生」「ハルマゲドン(世界の終末)」といった非現実的でオカルト的な教義を広め、その一方で政治活動(1990年の「真理党」結成)や武装化へと教団をシフトさせました。

松本は「救済」の名のもとに厳しい修行と服従を信者に課し、精神的支配を強めていきました。科学技術者や医師など、高学歴の若者を中心に多くの信者を獲得し、教団は研究施設や化学兵器の製造装置まで保有するようになり、国家を凌駕する力を持つことを目指していきます。信者たちは、教祖の命令が絶対であるという価値観のもと、外部の人間を敵視し、殺人や拉致といった暴力行為にも手を染めるようになります。

その極致が1995年3月20日に発生した「地下鉄サリン事件」であり、通勤時間帯の東京の地下鉄で猛毒の神経ガス・サリンを散布し、13人が死亡、6000人以上が負傷するという未曾有のテロ事件を引き起こしました。この事件は日本だけでなく世界中に衝撃を与え、「日本社会の無防備さ」や「宗教と暴力の結びつき」が深刻に議論される契機となりました。

事件後、松本智津夫は多数の罪状で逮捕・起訴され、2004年に死刑判決を受け、2018年に刑が執行されました。オウム真理教は「アレフ」などに分裂してなお存続していますが、松本の思想は公には否定され、彼のカリスマ的指導力がいかに危険なものだったかが改めて認識されています。彼の「空中浮揚」や「超能力」などの主張は今となっては疑似科学とされ、過激思想によるカルト化がいかに社会的リスクとなりうるかという象徴的な存在として記憶されています。

事件発生時の衝撃/

1995年3月20日に発生した地下鉄サリン事件は、通勤時間帯の午前8時頃に新興宗教団体「オウム真理教」のメンバー5人が東京の地下鉄で猛毒サリンを散布しました。12人が死亡し、約6000人が負傷するという未曾有のテロ事件でした。この事件は、日本国内だけでなく、世界中に衝撃を与え、オウム真理教の危険性が広く認識されるきっかけとなりました。偶然にも筆者は港区の病院に通院している最中に事件に遭遇し、次々と被害者が運び込まれ、病院が騒然としていた様子を覚えています。 ​毎日新聞

この事件の背景には、オウム真理教の幹部たちの異色の学歴と専門知識が関係しています。例えば、林郁夫は慶應義塾大学医学部を卒業し、心臓血管外科医としてのキャリアを持っていました。彼は教団内で「治療省大臣」として医療活動を担当し、地下鉄サリン事件では実行犯の一人として関与しました。维基百科,自由的百科全书

また、上祐史浩は早稲田大学大学院理工学研究科を修了しており、科学技術に精通していました。彼は教団のスポークスマンとしてメディア対応を行い、教団の科学技術部門を支えていました。

これらの高学歴の幹部たちが、教団の科学技術部門や医療部門を支え、化学兵器の開発や医療活動に従事していました。その結果、地下鉄サリン事件のような大規模なテロ行為が可能となり、日本社会に大きな衝撃を与えました。何故、怪しげな宗教にハマっていくのか個別の闇があったのか色々と論じられています。

現在の後継団体の活動

オウム真理教は、2000年に解散しましたが、その後継団体として「アレフ」、「ひかりの輪」、「山田らの集団」が活動を続けています

アレフ:アレフは、オウム真理教の後継団体として最も大きな組織であり、現在も麻原彰晃の教えを信奉しています。埼玉県越谷市に本部を構え、全国に拠点を持っていますが、公安調査庁の監視下にあります3。

ひかりの輪:元幹部の上祐史浩が設立した団体で、オウム真理教の過去の行為を反省し、仏教哲学や心理学を学ぶサークルとして活動しています3。

山田らの集団:アレフから分派したグループで、麻原彰晃の教えを忠実に守り続けています。石川県金沢市と東京都武蔵野市に拠点を持ち、公安調査庁の監視対象となっています。これらの後継団体は、依然として麻原彰晃の影響下にあり、社会的な不安を引き起こす存在として監視されています。

松本智津夫とオウム真理教の歴史は、日本社会に深い傷を残しましたが、その後継団体の活動も含め、現在もその影響は続いています。

まとめ:創造の力は、人を導きも破滅させもする。

以上の記事で取り上げた二人の「松本」は、まったく異なる人生を歩みながらも、「新しいものを生み出す力」を持っていたという点で共通しています。しかし、その創造力が向かう先が人類全体の幸福に寄与するものか、それとも破壊と混乱をもたらすものかによって、結果は大きく分かれました。創造力そのものは中立です。人間の意思が、その力を善にも悪にも変えてしまうのです。

Rubyに宿る、人間中心の思想

まつもとゆきひろ氏が生み出したRubyは、「人間のためのプログラミング言語」というビジョンのもと設計されました。プログラマーが楽しく、美しく、そして効率的にコードを書くための道具として、Rubyは設計段階からユーザーの幸福を念頭に置いています。このように人間中心の設計思想は、技術が社会にポジティブな影響を与えるための重要な視点であることを示しています。

オウムの教義に潜んでいた「疑似科学の誘惑」

一方、松本智津夫が打ち立てた教義は、超能力や空中浮揚といった疑似科学を利用し、信者の心を操作していきました。本来、科学や精神世界は人々の理解と癒しに役立つものであるはずですが、彼はその「未知」への憧れを悪用して、破滅的な行動に結びつけたのです。創造性が他者を支配する手段として用いられるとき、それは極めて危険な力に変わります。

同じ「松本」でも、選んだ道が社会への影響を分けた

二人とも日本という国に生まれ、独自の思想や技術をもとに、何か新しい世界を築こうとした点では似ています。しかし、まつもとゆきひろ氏は自由な発想と共感を通じて、世界中の開発者とつながる言語を生み出しました。一方の松本智津夫は、閉鎖的な世界観と絶対的な服従の構造を築き、最終的には社会に深い傷を残しました。この違いが示すのは、創造の「意図」と「責任」がいかに重要かということです。

それぞれの松本氏は自分の意志をもって「信じたい!」と思う理想を具現化した訳ですが、その中で常に将来を見据えなければいけません。この作業を進めていったら「自分は大変だ(面倒だ)」けれども「社会は(家族は)よくなる」と思える理想をしっかりと語っていきたいですね。

〆最後に〆

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